写真 (6)


何度も殺されかけた
身体ではなく心が


生きるのに嫌気がさし
そのくせ自分で死ねない人間に

道連れになれと
言われるかのように

数知れずの
死にたくなる言葉を投げつけられた


死にたいのなら
ひとりで勝手に死ねばいい

自己願望を
自らで果たそうとしない者は

他者に暴言を投げつけ
殺したい感情を植え付けることで

死の願望までも
他者に導いて貰おうとする



ボクは騙されなかった

そんなくだらないヤツの
死にたい願望のために

ボクが生きる場所の
自由を奪われるのなんて

あまりにも
バカバカしすぎると想ってた


騙されなかったことを
今も誇りに想う


真実はとても
残酷なものだけれど

残酷さに負けず
偽りを選ばなかったのは

ボクはただ
ボクを嫌いになりたくなかったから

ボクはただ
ボクを好きでいたかったから



スポンサーサイト

写真 (5)


きみの強さを知るたびに
弱さに打ちのめされた日の

きみの姿を感じる


きみの輝く笑顔を見るたびに
哀しみに打ちひしがれた日の

きみの姿を感じる



打ちのめされるたび
作り上げてきた筋肉

打ちひしがれるたび
追い求め続けた微笑み

強さの数だけ
弱さを知っているきみ


輝く笑顔は
深い哀しみの日も

人としての心を持ち続けた
きみ自身へのギフト



笑顔は免疫力をあげるとか
健康になる力があるからとか

データ上の言葉は
心には何も響いたりしない



きみの命の
強い輝きを知るたびに

きみの生きた軌跡に
賛辞を贈りたくなる


きみの生きた軌跡に
愛しさを感じるたびに

ボクの生きた軌跡も
また愛しい道であることを知る


きみの微笑みの持つ
深い意味を知るたびに

ボクの微笑みの持つべき
深い意味も知っていく


電車に乗れようが
会社に行けようが

料理ができようが
洗濯ができようが

自分のことができない人というのが
この世には未だ存在している



本当の意味で
自分のことができない人というのは

表向きな社会活動を
こなしていない人などではなく

自分の心のゴミを
他者に投げつけ続ける人間だ


自分で住む部屋は
自分で片付けることでしか

自分自身の居心地の良さが
獲得できないのと同じように

自分の心を
快適に保つためには

自分の心のゴミは
自分で片付けるのがマナーというもの



表向きだけ
社会的活動ができていさえすれば

社会の役に立っているなんて
それこそ大きな勘違いだ



他者のため
社会のため

家族のため
子供のため
親のため


こうして
自分自身に目を向けず

その理由を
他者のせいにし続け

その末に産まれた
愚痴や不満の数々を他者に投げつける


自分の心のゴミさえも
自分で片付けられない人間こそが

道ばたに
歩きながらゴミを放り投げ

誰かがいつか
拾ってくれるのを待ち続ける

社会(他者)に
迷惑をかけ続けている人間だ



心のゴミ掃除なんて
他者の目にはつかない

だからこそ
表向き活動しか見ない人々からすれば

自己探求期というものは
社会的立場を抹殺される時期でもあるけれど


そんなことに
脇目も振らず

ただ自分のためだけに
ひたすらゴミ掃除をして

自分の快適な場所を作り出すことを
自分でできるようになった人こそが

快適の波を産むという
他者貢献ができるようになっていくんだ

日によって面白いのがある
GoogleのTOP画像

マウスを合わせて変化するものや
音が鳴ったりするものがあるけれど

これを個人的に編集して
音を載せて映像にしてる人も居るんだね


画像に合わせた
音楽のセンスとか

マウスを合わせた
動きの見せ方とか


このチャンネルが
1番彩ね。好みだなぁ・・・



【Google Doodle Art】

写真 (2)


遠いあの日に
恋しい人を傷つけた哀しみが

今も胸の奥で
吹き荒れているのなら


それほどまでに
大切に想えた人に出逢えた

きみ自身の魂に
誇りを持てばいい



誰もがどこかに
傷を持っていて

傷の痛みに
耐えきれなくなったとき

その痛みを訴えるため
誰かのことを傷つけていく


傷つけた自分が
傷ついていたのだから

自らに銃弾を
向けなくなった人から

他者に銃弾を
向けなくなっていくんだ



GACKT 『Storm』



写真 (4)


自分を責め
傷つけ続けてきた人こそが

他者を責め
傷つけ続けていく



産まれたての
赤ん坊が

自分を責めたり
自分を攻撃しないように

誰もが持つ傷の
そもそもの発端は他者だけれど


自らを傷つけ続けてきた手を
自らを抱きしめる手へと

使い方を変えるのは
自分自身の意思でしかないんだ



自らの手で
自らを傷つけるという行為もまた

自分以外の他者から
知っていくものではあるけれど


だからこそ
それは


自らの手で
自らを抱きしめる行為もまた

自分以外の他者から
知っていくことが可能であるということ



自分の傷つけ方を
よく知っている人ほど

苦しみに満ちた
他者を見続けることで

多くの苦しみを
吸収してきているのだから


きみの持つ
その優れた吸収力と洞察力を


喜びに満ちた
他者を見続ける方向へと

使いこなし
手を伸ばしていくことで

自分の抱きしめ方も
吸収することができるんだ


自分発信で
他者に注ぐ想いって

おすそわけと
とても近いところがある



自分のことが好きで
喜びに満ちている人というのは

好みのものや
美味しいものを

沢山貰って感激したから
という視点で他者にも手渡していくけれど


自分が嫌いで
不満に溢れている人というのは

好みじゃないものや
美味しく感じないものを

沢山貰って余ったから
という視点で他者に手渡していく



好みじゃなければ断ればいい
美味しくなければ捨てればいい

なぜそれが
できずにいるかというと

嫌われたくないとか
非難されたくないとか

他者に対する
不信感から来ているんだ


そしてその
他者に対する不信感とは

自己存在に対する
不信感から産まれている



誰にだって
嗜好が存在している


好みじゃないものを
好みじゃないというだけで

嫌ったり
非難する人間なら

喜び指針で生きる
自分の人生には必要ないものだ



日常で見る言葉
日常で聞く音楽

これを自分好みで
選択していくということもまた


他者に対する
おすそわけ心理に重ねると判りやすい


自分が苦しくなる言葉(音)
自分が不快になる言葉(音)

こういう言葉ばかり
投げつけてくる相手に対して

嫌われたくないからと
垂れ流し状態で聞き続ける人ほど


自分の中に溜め込んだ
苦しみと不快を

周囲の人間に
おすそわけの如く垂れ流していく


”一見したいい人”ほど
害になるとはこういうことだ



自分が好きな人は
自分の見る言葉も聞く音も

垂れ流しになっているものを
ただ受け止め続けたりなんかせず

自分の意志と
自分の好みで選択していく


自分の好みのものを
自分で選び取っていくからこそ

自分のことを
どんどん好きになっていく


なぜなら
嗜好で選択をするということは

自分に対する
愛の行為そのものだからだ



けれどこれまで
周囲が垂れ流してきた

苦しみや不快を
黙って受け止め続けてきた人が

自らの意思で
不快や苦しみを引き受けなくなれば

周囲の人間は
そのすべてを自分で引き受ける事となり

だからこそ
”嫌なヤツ”呼ばわりされるようになる



嫌なヤツ
そう呼ばれるようになったなら

それこそが
負のループから抜け出したサインだ


”いい人”なんて所詮
他者都合の言葉でしかないんだから


嫌なヤツとは
他者主導の人生から

自己存在に重きを置き
自分への愛を自己で注ぐ人生に

突入した人に与えられる
素晴らしい称号なんだ




写真


絶望の果てで
なぜ自分がと想うのなら

その想いさえも
トコトン極めてしまえばいい


なぜ自分がという
底の底で感じる怒りこそが

”自分は何も悪くなかった”という
真実に辿り着くための

大きな
起爆剤になってくるからだ



いい子を演じているうちは
決して言えなかっただろう


いつだってまるで
きみひとりが悪いかのように

平然と責めたて
当たり前のように攻撃する他者が


きみが散々痛めつけられ
どれだけ悲しみの涙を流しても

能面のように冷ややかな顔をして
平然と生き続けていることへの


本気の怒りを
心の中で点火させたとき

自分の喜びを
ねじ伏せてまで演じてきた

いい子仮面を
脱ぎ捨てることができるんだ



こういう絶望の底で
他者への許しや感謝を求めるという

精神世界の思想は
絶望を極める邪魔にしかならない


中途半端に
そこにある苦しみを封じ

直視しないことで
継続される痛みほど

息苦しく
生きた心地がしないものはない



絶望の底もまた
エネルギーがなければ辿り着けない場所

鬱屈して溜め込まれた
強いエネルギーがあるからこそ

底の底まで
落ちることができるんだ



底に落ちたなら
底に落ちた自分を褒めろ

底に落ちるほどの
力がある自分を尊敬するんだ


他者なんかどうでもいい
許しや感謝なんて必要ない



そもそも想いとは
他者に求められることで

強引に
産み出そうとするものではなく

心を使って生きる日々の中で
湧き上がってくるものだ



感情は
ひとつ潰されることで

その他の感情も
どんどん捻り潰されていく


だからこそ
絶望の底で得られるものは

他者に潰されてきた感情を
自らの手で取り戻すということ

生々しい
血なまぐさい

生きた想いを
獲得するということ



なんだって
極めたモン勝ちだ

絶望を極めれば
もうそこには居たくなくなる

極めるからこそ
どうでもいいものを捨て去れる



闇の中で極めた
真の怒りと憎しみこそが

きみは何も悪くないという
真の愛に辿り着いていく



これもまた
熱も重みも感じない

奇麗事ばかりを並べ立てて
他者に許しや感謝を求め続ける人々は

決して
知り得ない真実だろうけどね



ボディガード [DVD]ボディガード [DVD]
(2003/12/06)
ケビン・コスナー、ホイットニー・ヒューストン 他




この映画
前に見たのはTVだったっけ

ホイットニーの訃報を聞いてから
なんだか無性に見たくなった


やっぱり今見ると
深みっていうのが違ったなぁ



フランクもレイチェルも
自分の生き様に命を懸けている


どんなに命を狙われても
どんなに他者に脅されても

ステージに立つ事を
決してやめないレイチェルの姿って


他者視線に囚われ
支配されてきた日々から

自分視点という
ステージに立つ人生に移行すると

覚悟を決めた人の姿と
ものすごく重なるんだよね



自分を生きるということや
自分の喜びを追求するということを

放棄した他者が
身近に存在するのなら

その他者から
突破する時というのは

誰だって
命がけにならざるを得ない



そして
自らの幸福を投げ打って

他者のためにと
生きるという行為が

所詮は自らの手で
幸福を獲得するという

自発的行為を怠った人間の
奇麗事だということも

とても
鋭く描かれていた



不幸は放っておいても
勝手に増殖するものだけれど

幸福は自らの手で
発掘し増やしていくもの



切なくもあるけれど
強い命の輝きもガンガンに感じる映画


見終わってから
改めて調べてみたら

1992年の作品だと知って
その素晴らしさに更に驚いた



美しく
凛とした輝きを放つ作品

真の美しさを放つものは
年代や時代を飛び越えて

決して色あせることなく
存在するということ


これもまた
映画や音楽だけに限らず

自らの想いを
自らへの愛をもって表現し生きる

凛とした光を
放ち続ける人たちの

色あせることのない
生命の輝きと通じるところを強く感じた



Whitney Houston『I Have Nothing』

スクリーンショット(2012-02-19 18.59.08)


Googleって
たまにTOPページに

かわいかったり
素敵なアニメーションが流れるけど


Google公式の
YouTubeチャンネルってあって

そこでその幾つかは
また見る事が可能なんだ~~~~



これはかわいいし

【The Google Fiber Team Wishes Kansas City Happy Holidays】


この間のバレンタインも
もう1回見られるよ

【Valentine's Day Google Doodle】


フレディ・マーキュリーの
アニメーションも

【Freddie Mercury Google Doodle】


包帯クラブ [DVD]包帯クラブ [DVD]
(2008/02/15)
石原さとみ、柳楽優弥 他





他者を救いたい

そう叫ぶ人は
この世に多数存在する


その多くの人間が
他者を救うという名目で

実は誰よりも
自分自身の心の奥に潜む

痛みや悲しみを
他者にすり替え

自分の傷を直視することから
逃げ続けている



癒しの前段階で
誰もが経験する痛み

そこからいつの日か
自分の心の中に疼くものを知る


真の癒しとは
他者の手で行われるものではなく

自らの意思と
意思に従ったことによる

再生力から
起きていくものだ


助けたい気持ちと
助けて欲しい気持ち

その根源の姿と
根源を吐き出すという

自己再生の過程で
必要な要素が描かれている



そこに潜む
親子関係の闇というものは

この映画では
深く描かれていなかったけれど


その分親という存在を
除外した環境の中で

今そこにある
もがいている想いを持つ人々が

自らの生命力を存分に発揮して
徐々に自分を開いていくという

魂の真の力強さが
とても際立っていた



石原さとみって
元々好きだったけれど

透き通った中にある
突き刺すような鋭さが

隅々に発揮されていて
清々しかったし


柳楽優弥も
切なくも生命力の溢れた

その存在の迫力に
めちゃくちゃ圧倒された


なんとなくで
借りてみた映画だけれど

貫地谷しほりも
田中圭も好きで

ここまで
好きな役者が揃ってて

その素晴らしさを
堪能できたっていうのも

またとても
嬉しい誤算だったな

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昨日は
土付きの長芋を頂きましたのん

こういう
摂りたて!って感じ好きだなぁ


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洗ってもこんな感じ
でもこれが本来の色で

スーパーに並んでるのは
白くしてあるからなんだそうな

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というわけで
すっても粘りが全然違う!

おろし金から
サーっと流れるんじゃなく

ネト~っとしてて
手で落とすとビヨ~ンと伸びる感じ


かなり食べ応えのある
長芋でございました


美味しかった!



ついでに面白いページを発見
「ながいも」と「やまいも」の違いとは?!

案内の仕方が
なんだかかわいいぞ

写真 (1)


表現者ってのは
他者の期待を裏切ってナンボだ

裏切るから面白い
裏切るからカッコいい


他者を裏切る=意外性の発揮


面白い裏切りとは
カッコいい裏切りとは

他者主導ではなく
自分主導人生から産まれる

常に行われる
新しい自分の発掘作業



そしてそれは

芸術家や著名人や
ミュージシャンの特権ではなく

自らの想いを表現する
今を生きるすべての存在に

等しく宿っている権利


そう
ホントは誰もが

愛しき表現者なんだ



ガガのスナップって
見ていると面白いんだよね~


彼女をマドンナと比較をする人々が
多数存在するけれど

彩ね。からしたら
そんなんはナンセンスな話じゃ


たとえば
ガガのボブヘア

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アナ・ウィンター↓を
彷彿とさせるカッコよさだ

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PVだって
よく目をかっぽじって見ていると

まるでマイケルみたいだ!と
感じるシーンもある



つまりは・・・だ

彼女は自分にとって
リスペクトしている人の持つ

魂のエネルギーを
それだけ忠実に使いこなせる錬金術師なのさ!



そしてこれは
ガガが好きというキティーちゃんを

そのまま
衣装にしてしまったわけだけれど

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これこそ
ガガの素晴らしさで

単なる
奇抜さだけではない

誰もが笑えるという
判りやすさだと思うんだよね



好きを表現する
好きを身にまとう


そのことで
どういうパワーが充填されるか

ということを
ユーモアたっぷりに表現している



彼女がここまで
表現することができるのは

彼女自身が
自分の立つべきステージに立っているからだ


そこまでに掛けた
時間と手間っていうのを

自分自身の自己表現を
極める道のりを歩いたことがない人間は

決して知ることがないから
簡単にケチつけるんだろうけれど

ケチつけるんなら
自分でやれっていう話なんだよ



そして
ガガのこういった

判りやすさというものもまた
彼女の計算上のことだ


自分の好きなもの
自分の好きな人

そういうものを
聞きまくって見まくって

極めた先にあるものを
彼女は判りやすく表現している



つまりは
彼女を批判する人間さえも

ガガの計算に
ハマっているというワケだ



kakera.jpg


きみとボクが出会ったのは
単なる偶然なんかじゃない


裸足で歩き続け
叫んだボクの声を

きみは聞き逃さずキャッチして
キャッチしたきみをボクは見逃さなかった


互いの声と姿を
逃すことがなかったのは


千切れたボクの心のカケラと
千切れたキミの心のカケラのカタチが

少しだけ似ているということに
初めから気づいていたからなんだ



【見逃さなかった人はこちらからどうじょ】



人が
他者に投げつける

「可哀想」という言葉ほど
余計なお世話なものってない


だってこの言葉を
発している人の思考軸は

「ないもの探し」から
始まっているからだ



自分は持っていて
他者は持っていないもの

それを探し出しては
可哀想という言葉を投げつける



自分が持っているものを
他者が持ってないから何なんだ?


それは
自分には必要だけれども

他者にとっては
必要ないからかもしれないじゃないか


もしくは
一時的にその人が持ってなくても

新しい何かを
獲得するためっていうこともある



それどころか
自分は持っていないものを

可哀想と言われている他者は
持っているかもしれないんだよ



じゃあ

他者が持ってて
自分が持ってないものがあれば

今度はそこで
「可哀想な自分」が存在するわけだ


つまりは
こういう言葉を発している当事者の中に

自分基準による
自分の人生判断ではなく

他者と自分との比較による
自分の人生判断によって産まれた

「可哀想な自分」
というのが存在しているからなんだよ



どんな状況のときも
他者に何を言われても

ここまで生きてきた
自分自身の存在に対して

「よく生きた」
「よくやった」

こういう言葉を
自分に投げかけている人間は

他者に対して
可哀想なんて微塵も言うことはない


何もないところから
自己存在を築き上げた人から

自分にあるもの発掘から
自己存在肯定という道を辿り

自分そのものへのリスペクトから
他者そのものへのリスペクトという

自己愛から発展した
他者愛への発信へと変換している



自分に対して
無いもの探しをして

可哀想だの
不幸だのと嘆き続けている人間が


他者に対してまで
無いもの探しを続けて

自分の脳内に存在する
不幸人生像を他者に擦り付けていく


こんなものほど
邪魔くさいものはないんだ



可哀想という言葉とは
自分の中に存在する

相手の不幸イメージを
言葉によって投げつけているということを

いい加減
自覚するべきだと思うけどね



ONE OK ROCK『アンサイズニア』

聞いているだけで
運気が上がる音楽

見ているだけで
運気が変わる絵


今や創作世界にも
このテの思想のものが出回っているが

こういう方法で
買い手を募る人間こそが

売り手に対して
依存をしている人間なんだ



そもそも
人のネガティブ思想の根源は

過去に存在した
不幸人間からの

ネガティブ意識満載の言葉を
長年聞き続けてきたからだ


だからこそ
その根源を探り当て

その根源なる人物から
キッチリと距離を置く


プラス自分の好きな
幸福人間の存在を見つけ出し

そこから新たなる
幸福イメージを膨らませていく



こういう一見地味ながらも
実践的な方法を重ねることこそが

自分の思考パターンを
変えていくために必要なことなんだ



だからさ
聞くだけとか見るだけとか

こんなのは
一時しのぎにしか過ぎないし

実践的になんか
結局役に立たないんだよ



そもそも心が癒されたり
心が元気になる音楽やアートとは

自分自身がピン!と
心に響くものでこそであって

その基準や嗜好は
人それぞれ違って当然のはずだ


それを一律に

これを聞けば
これを見れば

という風に
ひとくくりに考える人間こそが


これまでずっと
他者に敷かれたレールの上で

自分がこう思ったとか
自分がこう感じたではなく

誰がいいと言ったからとか
誰にこうだと言われたからとか

こういう判断基準でしか
物を選んでこなかったのが見てとれる



自分が好きな音だから
聞いていてハッピーになる

自分が好きな絵だから
見ていて心が躍る


その音や絵(色)に宿る
嗜好で選んだもののエネルギーは

自分自身の中にある
自分に対する愛のエネルギーとリンクする


だからこそ
自己感覚により選び取った

好きな音を聴くことや
好きな絵を飾ることで

自分のパワーも増強され
自分らしさの発揮の後押しになるんだ


そしてこれは勿論
音楽やアートに限らず

日々自分が手にする
あらゆるものに言えること



物にも
作り手の思想がこもる


商品の肩書きではなく
商品の本質を見るとは

自分の本質を
見ることと同じように

自己感覚磨きに
大切なことなんだよ